StarFeed
ヨハネス21世 (ローマ教皇)

ヨハネス21世 (ローマ教皇)(Pope John XXI)

日別に見る

この人は?

ヨハネス21世(Ioannes XXI、1210年と1215年の間? - 1277年5月20日)は、ローマ教皇(在位:1276年 - 1277年)。本名をペドロ・ジュリアン(Pedro Julião)、ラテン語ではペトルス・ヒスパヌス(Petrus Hispanus)といい、現在に至るまで唯一のポルトガル出身の教皇。唯一の医学者でもある教皇である。研究部屋の天井が崩れて、その下敷きになったことにより、在位わずか8か月で死去した。  生涯 学者 生年はいくつかの説があり、McBrien (1997)では1210年から1215年ごろの間とされるが、『カトリック百科事典』(1913年)、ジョセフ・P・マラリー(Joseph P. Mullally)、ユゼフ・マリア・ボヘンスキーは1210年と1220年の間、ベルトゥス・ド・レイクは1205年ごろと推定した。ポルトガル王国で生まれ、リスボン大聖堂内の神学校で教育を受けた。15歳ごろから10年間パリ大学に留学し、弁証法、論理学を学び、アルベルトゥス・マグヌスからアリストテレスの自然学、形而上学の講義を受けた。学芸学部で自由七科を修了した後、神学部の課程も修了した。 1230年代前半にレオン王国で論理学を教え、山下正男は『論理学綱要』の初期の写本に登場する地名を証拠として、ペドロがレオン王国で『論理学綱要』を執筆したと推定した。また医学も身につけ、1245年から1250年にかけてシエナ大学で医学を教えた。山下は『論理学綱要』に医学に関する事柄がないことから、ペドロが『論理学綱要』を執筆した後に医学を学んだと推定した。ただし、『カトリック百科事典』は『論理学綱要』がシエナ大学時代に執筆されたものとしている。 枢機卿 1261年ごろよりオットボノ・フィエスキ枢機卿(後の教皇ハドリアヌス5世)に随行するようになり、リスボンの助祭、次いでブラガ大司教区ヴェルモイン(Vermoim)の助祭長にも任命されている。この時期よりテオバルド・ヴィスコンティと知り合ったとされ、1271年にヴィスコンティがグレゴリウス10世として教皇に選出されると、ペドロは1272年にグレゴリウス10世の侍医に任命された。学者として名声のあったペドロは1273年春にブラガ大司教に任命されたが、直後にグレゴリウス10世によりトゥスクルム司教区の司教枢機卿に任命された。以降も1275年5月に次期ブラガ大司教が任命されるまでの暫定大司教を務めた。1274年の第2リヨン公会議に出席した。

最近あったこと

まだ新着なし — 数分ごとに確認します。