
장준하
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張 俊河(チャン・ジュナ、장준하、1918年8月27日または1915年 - 1975年8月17日)は、大韓民国の政治家、官僚、ジャーナリスト、独立運動家、社会運動家、実業家。雑誌『思想界』を創刊し、朴正煕政権下での言論面での抵抗に寄与した。日本名は張安俊河。 人物 日本統治時代の朝鮮の平安北道朔州郡に牧師の長男として生まれる。父親が独立運動に関わっていたことから各地を転々とし、中学卒業後に日本へ留学。東洋大学予科を経て、長老派の日本神学校を卒業する。1944年1月20日に学徒出陣によって日本軍に入隊、創氏改名では「張安俊河」と名乗る。平壌駐屯の歩兵第41連隊補充隊(朝鮮第42部隊)で訓練を終えたのち2月から中国戦線に参加し、江蘇省徐州の第65師団輜重隊(専7991部隊)を経て同地の独立歩兵第58大隊(長:柄田節大佐)に配属されたが、同年7月7日に尹慶彬、洪錫勳、金永祿とともに脱走、安徽省阜陽で別の部隊から先に脱走した学徒兵の金俊燁と合流した後、中国中央軍官学校臨泉分校の朝鮮光復軍幹部訓練班に入隊し、国民政府軍へ入隊して準士官に任じられ、1945年1月31日には重慶に赴いて、大韓民国臨時政府の光復軍に加わり金九の秘書となった。同年2月以降、米軍の戦略情報局(OSS)が朝鮮人隊員に情報・通信訓練を実施し、諜報員として朝鮮本土の重要拠点に侵入させるイーグル・プロジェクト(Eagle Project)の一員として抜擢され、5月1日には京城地域投入組に配置され、情報と組織の責任を負い、同年8月4日にすべての訓練を終えた。この当時の仮名は「キム・シンチョル」であった。しかし出撃に備えていた8月10日に突如、日本のポツダム宣言受諾の報に触れることとなり、光復軍も作戦変更を余儀なくされた。8月11日に池青天を指揮官とする国内挺進軍に従軍した。8月18日に米軍輸送機C-47で西安飛行場を離陸し、汝矣島滑走路に着陸、降伏した日本軍に一定の指示を与えた後、8月20日に帰還した。 第二次大戦終結後の12月に帰国。この直前に西安で朴正煕と初めて邂逅し、日本軍の規律を光復軍に押し付けようとした朴と衝突している(張の秘書だった李轍雨の証言)。一時は金九と李承晩の提携に動くも成功せず、大韓民国政府樹立後の1947年に李範奭が設立した朝鮮民族青年団の教務処長に就任。だが間もなく職を辞し、1950年3月に教育部国民精神啓発担当官となり、1952年には教育部傘下の思想研究院に移り企画課長。その後は書務課長・事務局長を務め、朝鮮戦争後の1953年4月に思想研究院を辞し、雑誌『思想界』を創刊、ジャーナリストとしての活動を始めた。