
백선엽
このスターに新着があれば通知でお届け
日別に見る
この人は?
白 善燁(ペク・ソンヨプ、ペク・ソニョプ、백선엽、1920年11月23日 - 2020年7月10日)は、韓国の軍人、外交官、政治家、実業家。弟は軍人で教育者の白仁燁。本貫は水原白氏。創氏改名時の日本名は白川 義則(しらかわ よしのり)。号は愚村(ウチョン、우촌)。日韓併合解消後の韓国で、同陸軍の創設に参加した。朝鮮戦争の激戦地の第一線で指揮をとり、白将軍として知られる。共同作戦を行うアメリカ軍からは「ホワイティ(Whity)」の愛称で呼ばれた。韓国陸軍初の大将に任じられ、退役後は各国で外交官を務めた。 人物 1920年11月23日、日本統治下の朝鮮半島、平安南道江西郡、平壌近郊の江西面徳興里で父・白潤相、母・方考烈の間に生まれる。姉に白福燁、弟に白仁燁がいた。 近在では比較的裕福な中規模地主の家系であった。6歳の時に父が死亡すると一家は困窮したたために母と子供3人で平壌に移り住んだ。母と姉が働くことで家計は安定し、白善燁と白仁燁は進学することが出来た。小学校を卒業後、道立の商業学校と、国民学校の教師を養成する難関の平壌師範学校の両方を受験して合格したが、学費無料のほか衣食住の支援も受けられる平壌師範学校の尋常科(教師コース)に入学した。1939年に平壌師範学校を卒業したが、師範学校は在学中の生活を保証される代わりに卒業後の2年間を教師として勤務する義務があった。しかし白の母方の祖父が大韓帝国軍で参領(少佐)にまでなった軍人であったこともあり、1939年末に満州国に渡り奉天の中央陸軍訓練処に合格、1939年12月21日に入学した。残ったままの勤務義務はこれを中訓の軍医であった元容徳に相談したところ、学校幹事であった真井鶴吉少将の働きかけで、卒業資格を有したままで免除されることとなった。軍官学校の区隊長であった傳連和とは後に朝鮮戦争で交戦することになる。 1941年12月30日に優秀生徒として中央陸軍訓練処卒業(9期)。前年までは優秀な学生を選抜して日本の陸軍士官学校に留学させ上級幹部としての教育を受ける制度があったが、白が卒業した年に制度が中止されたため、陸士には留学していない。 満州国陸軍少尉に任官した白は宝清の満州国軍歩兵第二八団に勤務し、続いて佳木斯の新兵訓練部隊に配属され、小隊長となる。1943年1月初旬、間島特設隊に転勤。白頭山の鴨緑江、豆満江上流部一帯で、中国共産党が主導する中国人、満州人、朝鮮人により構成された抗日ゲリラの討伐に従事した。1944年春、熱河省の八路軍(紅軍)掃討作戦に参加、特殊工作とくに情報収集で偉功を立て、旅団長の賞詞を受ける。