竹联帮
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竹聯幇(ちくれんほう、ジュリェンパン)は、台湾台北市を拠点とする黒社会組織(暴力団)の一つ。台湾全域及び国外にも拠点を有し主要構成員数は約1万5千人、末端までの総数は10万人と言われている。四海幇、天道盟と並ぶ、台湾の三大黒社会組織の一角と称される。 略史 竹聨幇は1955年頃、孫徳培が現在の新北市中和一帯で組織した中和幇をその起源とする。中和幇は勢力を拡大し中和、永和、板橋一帯を勢力下に置いたが、1957年に孫徳培が古亭(現在の台北市大安区)のマフィア構成員を殺害、逮捕される事件が発生すると、中和幇は内部分裂を起こした。 その後中和幇の幹部構成員であった趙寧を中心に中和郷竹林路(現在の新北市永和区)で会議を開催、善後策を検討した。その結果幇主である孫徳培が逮捕されたが、幇主と幹部構成員の平等を尊重するために新しい幇主を設けないことを確認、あわせて中和幇を竹林聯盟(通称は竹聯幇)とすることを決定した。 1962年、四海幇が台湾当局の取締りにより解散させられた情況を利用し、四海幇の地盤を奪取し、この抗争の中で陳啓礼が組織の中で頭角を現し始めた。1965年、当時竹聯幇の構成員は500人を超え、他の黒社会の勢力範囲を併呑するなど急速に拡大し「天下第一幇」と称されるに至った。1968年4月、竹聯幇は陽明山で会議を開催し、勢力拡大に伴う組織変更を行っている。 1970年7月、構成員の陳仁が組織の資金を横領し逃亡、更に警察への保護を求めた。この事件は組織内部の不満を引き起こし、張如虹とその他2名により陳仁を警察官の面前で殺害する事件に発展した。陳仁殺害は台湾社会に大きな衝撃を与え、背後で殺害を指揮した陳啓礼は逮捕され懲役6年の判決を受けた。 1972年、陳啓礼が逮捕収監されたことで組織の衰退を迎えた竹聯幇であるが、幹部構成員の支持を取り付けた張安楽により竹聯幇再興に乗り出した。当時総護法(理事長に相当)であった張安楽は組織の制度化を推進し、若い構成員を抜擢し側近とした。しかし竹聯幇内部での抗争は依然続き、旧派の周榕派の反発を受け失望し張安楽は1975年にアメリカに渡っている。 1976年、出獄した陳啓礼は竹聯幇再編を目指すが、周榕派との内部抗争が続いた。しかし周榕派は次第に陳啓礼に帰順し、周榕派勢力の切り崩しに成功する。竹聯幇の実権を掌握した陳啓礼は初代幇主に就任、更なる勢力拡大を実現した。