
石井琢朗
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この人は?
石井 琢朗(いしい たくろう、本名および旧登録名:石井 忠徳〈いしい ただのり〉、1970年8月25日 - )は、栃木県佐野市出身の元プロ野球選手(内野手・投手、右投左打)、コーチ。2026年より読売ジャイアンツ(巨人)の二軍監督を務める。 現役時代は主にNPBの横浜ベイスターズで活躍、通算2432安打を記録した。1998年には「マシンガン打線」の一番打者として横浜の38年ぶりとなるセントラル・リーグ優勝および日本シリーズ優勝(1998年の横浜ベイスターズを参照)に貢献した。 経歴 プロ入り前 小学校3年生の秋から父が監督を務めていた犬伏学童野球クラブで野球を始め、クラス文集に「巨人にドラフト一位で入りたい。」と記す。小学生の頃からエースとして活躍していた。プロへ進むには強豪高に入って甲子園に出場することが近道と考え、栃木県立足利工業高等学校に進学。1年時から背番号1を背負い、2年時に夏の甲子園に投手として出場。延長10回にサヨナラ負けを喫し初戦で敗退したが、エースとして粘り強い力投を見せた。 高校2年時、佐野日本大学高等学校の投手を見に来ていたスカウトの江尻亮が、練習試合の相手投手であった石井の投球を見て、球の切れと速さに惚れ込んだ。高校3年時のドラフト会議では、東洋大学への進学が決まっておりどの球団からも指名が無かったが、半ば強引な形で1988年オフ、ドラフト外で横浜大洋ホエールズに入団。 大洋・横浜時代 1989年4月13日、高卒ルーキーながら開幕早々広島東洋カープ戦で一軍初登板。10月10日のヤクルトスワローズ戦で初先発初勝利を挙げた。首脳陣からは「桑田二世」などと評価され、投手として将来を嘱望されたが、二軍(イースタン・リーグ)では好投するものの、一軍で結果を残せず、また本人も篠塚和典に憧れるなど、プロ入り当初から野手志望であり、1991年オフに須藤豊監督に野手転向を申し出る。元々須藤も石井を野手として評価しており、投手不足という事情さえなければ最初から野手転向させたい意向を持っていた。しかし、この時に石井は「(投手は)もう限界です」と発言。その言葉が気に入らなかった須藤に「何が限界だ、その程度で限界ならもう野球をやめろ!」と一度は拒絶されたものの、最終的には認められた。 1992年から内野手として登録され、同時に登録名を本名の石井忠徳から石井琢朗に変更。高校時代に外野を守ったことはあったものの、内野手は初挑戦で、フィールディングなどを見た首脳陣の判断で内野手となる。シーズン後半には野手転向1年目にして清水義之から三塁手の定位置を奪った。野手転向1年目はエラーも多く打撃も粗さが目立ったが、打撃は高木由一、守備は岩井隆之、走塁は弘田澄男と当時のコーチに一から徹底的に叩き込まれ、貪欲に吸収していった。