
中国攻め
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中国攻め(ちゅうごくぜめ)は、天正5年(1577年)以降に織田信長(織田政権)が主として羽柴秀吉に命じて行った毛利輝元の勢力圏である山陽道・山陰道に対する進攻戦。中国征伐(ちゅうごくせいばつ)とも称する。戦は足かけ6年にも及び、天正10年6月4日(西暦1582年6月23日)に講和するまで続いたが、その2日前、同月2日(西暦1582年6月21日)に本能寺の変にて信長が横死したためそのまま未完に終わった。 ※文中の( )の年は西暦、月日は全て和暦、宣明暦の長暦による。 経過 信長包囲網の形成と毛利の播磨進攻 中国攻め以前の織田・毛利関係 織田信長と毛利氏の当主・毛利輝元は阿波を本拠とする三好氏に対する牽制の意味もあって、但馬や播磨・備前のあたりを互いの緩衝地帯として、互いに友好関係を保持してきた。信長は、上洛以来瀬戸内海東部の制海権の掌握をめざし、それを阻む三好三人衆や石山本願寺とはしばしば戦ってきた(野田・福島の戦い)が、他方で瀬戸内海の西部海域を掌握していた毛利氏・小早川氏を敵にまわさないよう気を配ってきたのであった。しかし、一方で信長は天正3年(1575年)、大友氏・島津氏ら九州地方の諸大名を講和させて毛利氏の背後に圧力を加えようと企図し、関白左大臣の近衛前久を薩摩・肥後に下向させている。 天正3年8月、信長は明智光秀・羽柴秀吉を先鋒に、自らも出陣して越前府中(福井県武生市)を攻めて越前一向一揆を壊滅させ、加賀能美郡・江沼郡も制圧して、9月に越前北庄(福井県福井市)に北庄城を築き、後事を柴田勝家に託した。これは、石山本願寺にとっては大きな痛手となった。そして、天正元年(1573年)に室町幕府最後の将軍足利義昭を京より追放し、越前を平定した後の信長の「天下布武」における最重要課題は、政治的・軍事的にも、経済的にも西国の平定となったのである。 越前制圧の直後、信長方の摂津有岡城(兵庫県伊丹市)主荒木村重は西播磨の豪族から人質をとり、謀反を起こした宇喜多直家と交戦中であった備前の浦上宗景を援助して宗景の居城天神山城(岡山県和気郡和気町)に兵糧を入れ援助したが、天正3年9月に宗景は直家に敗れて備前を追われた(天神山城の戦い)。浦上宗景の敗退によって毛利氏に与する宇喜多直家が備前の支配権を奪取し、これにより毛利勢力の東進による織田氏との直接の衝突が現実味を帯びた。信長は天正3年10月、播磨の旧守護家赤松氏の配下であった御着城(兵庫県姫路市)の小寺政職や、三木城(兵庫県三木市)の別所長治、龍野城(兵庫県たつの市)の赤松広英、直家によって失領した宗景らが上洛して信長に出仕した。
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