
ユーリ・アンドロポフ(Yuri Andropov)
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ユーリ・ウラジーミロヴィチ・アンドロポフ(ロシア語: Ю́рий Влади́мирович Андро́пов, ラテン文字転写: Yurii Vladimirovich Andropov; 1914年6月15日 - 1984年2月9日)は、ソビエト連邦の政治家、軍人。ブレジネフの死後はソ連共産党中央委書記長、最高会議幹部会議長として同国の最高指導者の地位にあった。党中央委第二書記、国家保安委員会(KGB)議長、駐ハンガリー人民共和国ソ連大使を歴任。軍の階級は上級大将。 長らく秘密警察のトップたるKGB議長を務めた。書記長に就任後はブレジネフ時代に蓄積された停滞と腐敗の一掃・労働規律の強化に乗り出したものの、就任後に病に倒れ十分な成果を収められなかった。しかしアンドロポフの構想の一部は、自らが目を掛けて引き立ててきた同郷の後輩でもあるミハイル・ゴルバチョフに引き継がれた。 来歴 生い立ち アンドロポフは、1914年6月15日、スタヴロポリ州に、ナグツカヤの鉄道職員を父として生まれる。16歳でコーカサスのオセット自治共和国のモズドク市で労働者として働き始め、コムソモールに参加。その後、ヴォルガ川運輸局船員、電信技術者、映写技術者も務める。1932年又は1933年以降、ヤロスラフ地区のルイビンスク水上輸送技術専門学校に所属、1936年に卒業後、アンドロポフはルイビンスクのボロダルスキー造船所内のコムソモール専従書記になる。アンドロポフの公表されている学歴は、高等教育修了とされ、学業は振るわなかった。大学卒業相当の学歴になるが、16歳で働きに出ているところを見ると、学業の修了は、7~8年かかり、大学相当の教育機関への入学資格はなかったとみられる。しかし、KGBに就職後、大学相当の教育課程を修了していた可能性がある。 アンドロポフは、この時点では共産党員ではなかったものの、1938年までにヤロスラヴリ州の党委員会のコムソモール第一書記に昇進。1939年、ソ連共産党に入党。1940年には、カレロ=フィン・ソビエト社会主義共和国の第一書記になる。公式記録では、1940年から1944年までカレリア地区書記となっている。第一書記になるには、党規則により、5年以上の党員歴が必要であり、異例とも言える出世スピードであったが、これには、スターリンによる粛清により、役職に空白ができていたためである。冬戦争の結果、フィンランドは一部の領土をソ連に割譲した。ヴィボルグのソ連化がアンドロポフの任務であった。ただ、このソ連化に関しては、フィンランド人がほとんど逃げていたため困難な任務というわけではなかった。