
ヴィタヤ・ラオハクル(Witthaya Hloagune)
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ヴィタヤ・ラオハクル(Withaya Laohakul、วิทยา เลาหกุล、1954年2月1日 - )は、タイ王国出身の元サッカー選手、サッカー指導者。タイ語読みでは、ウィタヤー・ラオハグン。日本サッカーリーグ(JSL)での登録名はビタヤ。 来歴 選手として 14人兄弟の7番目として生まれる。長男と次男も同じくサッカー選手としてタイリーグでプレーした。18歳のときにラパチャFCに加入。 1976年8月、マレーシアで開催されたムルデカトーナメントのタイ代表対日本代表の試合にて、ヴィタヤはフリーキックにより2ゴールを決めた。試合後に相手チームの釜本邦茂からヤンマーディーゼルサッカー部(現・セレッソ大阪)に誘われ、その2ヶ月後に正式なオファーを受けた。ヤンマーには1977年5月に合流したが、外国から加入した選手を対象とする日本サッカー協会の移籍規定のため公式戦出場は翌年1月からだった。1978年1月15日の三菱重工戦で日本サッカーリーグ(JSL)デビュー。以降先発出場を続け、20試合4ゴール2アシストを記録した。彼はJSL史上初めてのアジア人の外国人選手だった。 日本から帰国後、タイ代表としてエスパニョール、1FCケルンと対戦した試合におけるプレーが西ドイツのヘルタ・ベルリンのスカウトの目にとまり、1979年よりヘルタに移籍。ヨーロッパのクラブでプレーする初めてのタイ人サッカー選手となった。1979年8月12日のフォルトゥナ・デュッセルドルフ戦でブンデスリーガに初出場。1979-80シーズンのリーグ戦出場は3試合にとどまったが、チームが2. ブンデスリーガ(ドイツ2部)に降格した1980-81シーズン以降は2シーズンで計31試合に出場した。 1982年に1.FCザールブリュッケンに移籍。1982-83シーズンのオーバーリーガ(当時ドイツ3部)で昇格を決め、1983-84シーズンには2. ブンデスリーガでプレーした。 1987年7月のJSLカップから松下電器産業サッカー部(現・ガンバ大阪)でプレー。ヘッドコーチを兼任しながら選手を続け、1990年に引退(1990-91シーズンの第8節をもって登録抹消)。 指導者として 1988年から松下電器のコーチ、Jリーグ開幕後はガンバ大阪のヘッドコーチとして日本で8年間指導者を務める。1996年に母国のバンコク・バンクを率いてタイ・プレミアリーグで優勝。1997年から1998年まではタイ代表監督を務めた。その後、アメリカのネバダ大学でアシスタントコーチ、シンガポールのセンバワン・レンジャーズFCで監督を務めた。
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