
ヴァシーリー・ジュコーフスキー(Vasily Zhukovsky)
日別に見る
この人は?
ヴァシーリー・アンドレーヴィチ・ジュコーフスキー(ロシア語: Васи́лий Андре́евич Жуко́вский ; Vasily Andreyevich Zhukovsky, 1783年2月9日(ユリウス暦 1月29日) – 1852年4月24日(ユリウス暦 4月12日))は、ロシア・ロマン主義を代表する詩人。詩作よりもむしろ、原作以上と評される翻訳で名をなした。その自由闊達な翻訳方法は、二葉亭四迷が「余が翻訳の標準」で称賛している。 来歴 トゥーラ近郊のミシェンスコエ村に生まれた。父は地主貴族アファナシ・ブーニン(イヴァン・ブーニンの縁者)。母は使用人のサリファで、露土戦争のトルコ人捕虜だったが、のち洗礼を受け、エリザヴェータ・デメンティエヴァ・トゥルチャニノヴナという名で事実上ブーニン家に輿入れした。使用人との間に生まれた非嫡出子だったため、父の友人の下級貴族アンドレイ・グリゴリエヴィチ・ジュコーフスキーと養子縁組し、ジュコーフスキーの名を得た。とはいえ、一応ブーニン家に連なる者として、実父や家庭教師から相応の教育を受けた。1797年から1800年までモスクワ大学貴族寄宿学校で学び、フリーメイソンの神秘思想やイギリスのセンチメンタリズム、ドイツのシュトゥルム・ウント・ドラングに強い影響を受けた。雑誌「ヨーロッパ報知」主筆である卓越した文人カラムジンと親しくしていた。 1802年トマス・グレイ作「墓畔の哀歌」の翻訳を「報知」に発表し、文名をあげた。今日では、これがロシア・ロマン主義の夜明けとされる。1808年カラムジンから「報知」の編集権を引き継ぎ、ロマン主義の主題や様式を探求した。ロマン派詩人の神秘性の発展に功績が認められる。自身の優れた詩作のほとんどを、姪にあたるマリア・プロターソヴァに贈っていたが、悲恋に終わる。1815年以降、古典主義に対抗し、詩的革新を目指す文学サークル、アルザマス会の一員として、ロマン主義の中心的詩人になった。