
三船敏郎(Toshiro Mifune)
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この人は?
三船 敏郎(みふね としろう、1920年〈大正9年〉4月1日 - 1997年〈平成9年〉12月24日)は、日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。本名は同じ。第二次世界大戦後の日本映画を代表する名優のひとりで、黒澤明監督作品への出演で知られる。国際的にも知名度が高く、1960年代以降は日本国外の映画にも出演した。1961年と1965年にはヴェネツィア国際映画祭で男優賞を受賞した。 来歴 誕生から終戦まで 1920年4月1日(木曜日)、中国山東省の青島に、父・徳造と母・センの長男として生まれた。三船が生まれた翌年に次男の芳郎、4年後に長女の君子が生まれた。徳造は秋田県由利郡川内村小川(現在の由利本荘市鳥海町小川)の漢方医の息子で、満州に渡って貿易商や写真師となり、青島と営口で三船写真館を経営していた。母は新潟県の旗本だった家柄の生まれである。1925年に家族は日本の租借地だった大連に移住したが、市内で転居が続き、それに伴い伏見小学校、聖徳小学校、朝日小学校と転校した。1934年に三船は大連中学校に入学したが、徳造が病気で入院することが多くなると、彼が経営するスター写真館(1929年に満州の連鎖商店街で開業)の仕事を手伝うようになった。父の目が届かなくなったことで、三船は盛り場で遊んで朝帰りをしたり、映画をたくさん見たりするなど、やりたい放題な生活を送った。 大連中学校を卒業した三船は、1940年に徴兵検査で甲種合格となり、陸軍に応召された。三船は広島の宇品港に招集され、初めて日本の土を踏んだが、すぐに貨物船に乗って満州に逆戻りし、公主嶺にある陸軍第七航空教育隊に入隊した。三船はさまざまな軍事訓練を受けたが、「鬼も泣く関東軍」と呼ばれた航空教育隊での上官のしごきは凄まじく、何かにつけて殴られ、声がデカイというだけで殴られることもあった。同隊で三船は写真の経験と知識があることから、写真部に配属された。 1941年、三船は牡丹江の第八航空教育隊に転属となったが、すでに引き揚げ準備が進行していたため日本に戻り、滋賀県の八日市飛行場に写真工手として配属された。三船は偵察機が赤外線カメラで撮影した航空写真を組み合わせ、敵地の地図を作成するという仕事に従事し、戦地に赴くことはなかった。しかし、三船は上官に対して反抗的な態度を取っていたため、終戦まで上等兵のまま過ごした。三船は炊事場の責任者でもあり、よく仲間のために料理を作って酒盛りを始め、酔うと必ずバートン・クレーンの「酒が飲みたい」を唄った。後輩兵だった鷺巣富雄(うしおそうじ)によると、古参兵の三船は初年兵をよくかばったりするなど面倒見がよく、少年兵がいじめられているのも見過ごせず、上官が相手でも「お互い階級章を外して、人間対人間で行こう」と喧嘩腰になったこともあったという。