
フィリップ・ペタン(Philippe Pétain)
このスターに新着があれば通知でお届け
日別に見る
この人は?
アンリ・フィリップ・ベノニ・オメル・ジョゼフ・ペタン(フランス語: Henri Philippe Benoni Omer Joseph Pétain, 1856年4月24日 - 1951年7月23日)は、フランスの軍人、政治家。フランス第三共和政最後の首相及びフランス国(ヴィシー政権)の主席を務めた。 来歴 第一次世界大戦まで 1856年4月24日にパ=ド=カレー県コシ=ア=ラ=トゥールで生まれた。1887年にサン・シール陸軍士官学校を卒業し、1901-1907年、陸軍士官学校・陸軍大学で歩兵学を講義した。彼の出世は決して早いものではなかった。第一次世界大戦が勃発した1914年、彼は既に58歳であったが、階級は大佐で、第33歩兵連隊の連隊長にすぎなかった。 しかし彼の軍事思想がフランス陸軍総司令官ジョゼフ・ジョフルの目に止まり、マルヌ会戦を前にこの年の8月3日、第1軍団第4歩兵旅団長、31日に少将に昇任、9月2日に第6歩兵師団長、14日に中将に昇任。10月20日に第33軍団長、1915年6月21日に第2軍司令官、1916年5月2日に中部軍集団司令官と一気に昇進した。以降アルトワの戦いやシャンパーニュの戦いで戦功を挙げ、西部戦線で最も卓越した指揮官の一人という評価を得るに至った。1916年2月21日のヴェルダンの戦いでは、バル・ル・デュックとヴェルダンを結ぶ街道(バル・ル・デュック街道、神聖街道)を兵士と物資を頻繁に運んだ。特に兵士は交替しながら戦争できるように回転させた。こうして第2軍司令官としてフランス軍を勝利に導き、「ヴェルダンの英雄」という名声を得た。その高い人気もあって1917年にはロベール・ニヴェルの後任としてフランス陸軍総司令官となった。1918年、連合国の勝利で第一次世界大戦が終結した後の11月には元帥に昇進している。 なお、第33歩兵連隊時代からの部下に、後の大統領・シャルル・ド・ゴールがいた。ペタンはド・ゴールを可愛がって戦前から戦間期まで軍内の活動に便宜を図り、ド・ゴールの長男フィリップの名付け親になるなど親密な関係だった。しかしド・ゴールが機甲部隊による電撃戦などを提唱すると対立を深め、第二次大戦前には決定的に決裂することになる。 戦間期 戦間期の1920年、独身であったペタンは42歳のユージェニー・アードンと結婚した。陸軍最高顧問となったペタンはマジノ線の建設計画を始めとするフランスの防衛構想に大きく関与した。しかしそれは第一次世界大戦の戦争形式を踏襲するものであり、後年のフランス敗北の一因ともなった。戦後、ペタンは「私の軍事的精神は閉ざされてしまった。新しい道具、新しい機械、新しい方法が導入されたとき、私はそれに関心を持たなかったことを告白しなければならない」と語っている。