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ファン・チュー・チン

ファン・チュー・チン(Phan Châu Trinh)

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ファン・チュー・チン(ベトナム語:Phan Châu Trinh / 潘周楨、1872年9月9日(嗣徳25年8月7日) - 1926年3月24日(保大元年2月11日))は、20世紀初頭のベトナムの民族運動家。フランスによるベトナムの植民地支配終焉に尽力し、暴力革命と、他国への支援要求に反対し、国民教育及びフランスの民主主義原理への訴えによるベトナム解放を主張した。 経歴 ファン・チュー・チンは1872年、ベトナム中部クアンナム省の学者でもある地主の子に生まれた。彼の父親は知識人の反乱に参加した一人であったが、1885年、他の反乱指導者に反逆の疑いを掛けられて殺害された。ファン・チュー・チンは13歳で孤児となったものの、彼の兄は、彼に古典語の教育を受けさせ、1901年には高度の北京官話を習得した。その後科挙に合格し、首都順化の阮朝宮廷に仕えていたが、官僚の腐敗に失望し、1905年に自らその座を退いた。彼は阮朝による君主制の復活をフランスによる植民地支配よりも悪いものと見なすようになり、君主制や因襲的な宮廷、保守体制に強く反対し、君主制の廃棄と民主共和制への移行を主張して全国を遊説した。それ以前の1903年、ファン・ボイ・チャウと会見しており、1906年春、彼と再会するため、みすぼらしい労働者に変装して香港、次いで広東へ渡った。 その後、東遊運動(ドンズー運動)の一環としてファン・ボイ・チャウとともに日本へ渡り、学生を教育するため、横浜に「ビン・ゴー・ヒエン(丙午軒)」という2階建ての寮を設立し、6月には日本の教育と政治形態を視察するため東京へ行った。ファン・チュー・チンは日本の富国強兵政策を信頼していなかったので、日本からの軍事援助を求めるファン・ボイ・チャウの考えに反対し、さらに他にも彼との意見の相違点を持っていたため、ファン・チュー・チンがベトナムに帰国する前の数週間、彼らは密接な議論を行っていた。ファン・チュー・チンは祖国ベトナムでファン・ボイ・チャウから反君主制とフランスとの協力の是非を議論する書簡を何度も受け取っていたが、彼は頑なに民主制への移行と君主制の廃棄、フランスと協力した進歩追求などを掲げて遊説を続けたため、ファン・ボイ・チャウは、彼の運動は瓦解し、資金調達も失敗するのではないかと懸念していた。 1906年、ファン・チュー・チンはフランス領インドシナ総督ポール・ボーに書簡を送り、その中でフランスに協力するベトナム人による地方の搾取を非難し、フランス人による啓蒙活動の実践、ベトナムの近代的な法律機関・教育機関・経済機関の発足、国家の産業化、保守的官僚の残存勢力の一掃をフランスに要請した。

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