
ポール・ドゥメール(Paul Doumer)
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この人は?
ジョゼフ・アタナーズ・ガストン・ポール・ドゥメール(フランス語: Joseph Athanase Gaston Paul Doumer、1857年3月22日 - 1932年5月7日)は、フランスの政治家。第14代共和国大統領を務めた。 生涯 カンタル県のオーリヤックで生まれ、鉄道労働者だった父についてパリへ移住して幼年期を送った。家族の厳しい経済事情故に、鋳物工場の見習工として就職しながらも、苦学してフランス国立工芸院で持続的な教育を受け、1876年に卒業。1877年にはマンドで数学の教授になった。翌年、大学で知り合ったブランシュ・リシェルと結婚。間に8人の子供を儲けたが、その内の5人は第一次世界大戦で死亡した。1879年からルミルモンで教授を務め、1883年に健康上の理由で同職を離れた後はサン=カンタンの地方新聞『ル・クーリエ・ドゥエーヌ』の編集長となった。 1879年にフリーメイソンのロッジに入り、1892年に"L'Union Fraternelle"ロッジのGrand Secretaryとなった。 1888年に政界に入り、1895年から1896年の短期間、財務大臣を務めながら所得税の導入を推進したが、成功しなかった。 1897年から1902年にはインドシナ総督を務めた。強引な同化政策と本国本位の植民地政策を行った。住民からの土地税、人頭税を増税し間接税を徴収したり、塩、アヘン、酒の専売による莫大な利益でそれまでの植民地財政を膨大な赤字から黒字に転換させた。植民地国庫の銀行券はインドシナ銀行へ預金したが、それを決済窓口として本国から鉄道建設、運河、道路、港湾整備、干拓事業といった公共事業を大規模に行って本国資本に受注させた。また原住民の土地を没収しフランス人入植者と協力者の地主・官僚に与えたため、農民は自作農から小作人・農業労働者に転落して困窮した。彼の統治はあくまで植民地経済の発展のためで現地人は考慮していなかった。 インドシナから帰還後の1905年から1906年には代議院(下院)議長を務めた。1906年1月、共和国大統領選挙に出馬するが、左派連合候補のアルマン・ファリエールに敗北。1910年の総選挙では議員職まで喪失し、しばらく政界から引退、実業界で活動した。