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レオニード・ブレジネフ

レオニード・ブレジネフ(Leonid Brezhnev)

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レオニード・イリイチ・ブレジネフ(ロシア語: Леони́д Ильи́ч Бре́жнев 発音、ウクライナ語: Леонід Ілліч Брежнєв、ラテン文字表記の例:Leonid Il'ich Brezhnev、1906年12月19日 - 1982年11月10日)は、ソビエト連邦の政治家。1964年のニキータ・フルシチョフの失脚後から1982年の死去まで、18年間に渡ってソ連の最高指導者の地位にあった。ソ連共産党中央委員会書記長(当初は第一書記)、最高会議幹部会議長を歴任。 概要 1964年のニキータ・フルシチョフの失脚により、ソ連共産党中央委員会第一書記に就任し、死去する1982年までの18年間に亘って同国の最高指導者として実権を掌握した。首相のアレクセイ・コスイギン、最高会議幹部会議長(国家元首)のニコライ・ポドゴルヌイと共にトロイカ体制(集団指導体制)を敷いたが、1977年から1982年までの間は最高会議幹部会議長を兼任した。ソ連邦元帥にもなっている。 称号はブルガリア人民共和国英雄称号を3回、ドイツ民主共和国英雄の称号を3回、モンゴル人民共和国英雄を3回、同国労働英雄を3回、チェコスロバキア社会主義共和国英雄を3回授与されている。また、国歌を編集し、憲法を変更したことでも知られる。ウクライナにおける少数民族のロシア人だったが、生涯ウクライナ訛りと風習を保った。 生い立ちから権力の掌握まで 1906年12月19日、ロシア帝国のエカテリノスラフ県カメンスコエ(現在のウクライナのカーミヤンシケ市)で生まれた。父のイリヤは祖父の代以来の地元の金属工場の労働者であった。1921年に家族と共にクルスクへ転居。15歳で地元の製鉄所に勤務し、1923年には共産党青年組織であるコムソモールに加わった。共産党はコムソモールの若い労働者を大学で学ばせ、指導者及び専門家に育て上げるという方針を採り、彼はその方針下で育った「60年代ソ連指導者の典型」であった。ロシア革命後の多くの労働者階級青年のように彼は1924年から1927年までクルスクの職業技術学校に学び、初級農業技師となって土壌改良業務に就く。1930年にカメンスコエに戻り、1931年10月に共産党に入党した。その後彼はドニエプロジェルジンスク冶金大学で冶金学を学び、1935年5月に卒業して東ウクライナの製鉄所技師になった。

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