「二つのドキュメンタリー作品から見えてくるものは…」敵こそ、我が友 戦犯クラウス・バルビーの3つの人生 KENZO一級建築士事務所さんの映画レビュー(感想・評価) - 映画.com

クラウス・バルビー(Klaus Barbie)
ニクラス・バービー、クラウス・アルトマン、リヨンの肉屋
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この人は?
ニコラウス・“クラウス”・バルビー(Nikolaus 'Klaus' Barbie、1913年10月25日 - 1991年9月25日)は、ドイツの親衛隊員。最終階級は親衛隊大尉。「リヨンの屠殺人」と呼ばれた(近年では「リヨンの虐殺者」との表記が多い)。 生涯 『リヨンの虐殺者』 ノルトライン=ヴェストファーレン州バート・ゴーデスベルク(現ボン)で生まれ、1925年に、父親の転勤に伴いトリーアへと移動した。1933年には、学生の身分ながら当時ドイツで勃興してきたナチスのために働き、1935年には親衛隊情報部に入る。1939年9月に第二次世界大戦が勃発すると、1942年にはドイツ占領下のオランダに赴任した。 その後、フィリップ・ペタンが首班を務める親独政府であるヴィシー政権下のディジョン、リヨンにゲシュタポの治安責任者として赴任する。1945年5月の終戦までの間に、ヴィシー政権下のリヨンで反独レジスタンスを鎮圧する任務に就いており、8,000人以上を強制移送により死に追いやり、4,000人以上の殺害に関与し、15,000人以上のレジスタンスに拷問を加えた責任者とされている。しかし実際には、この数字をはるかに上回る数のレジスタンスのメンバーやユダヤ人を虐殺した責任者と考えられている。また、孤児院に収容されていた44人の子供の虐殺に対する責任者ともされたほか、レジスタンス指導者だったジャン・ムーランを逮捕し死に追いやったとのちに供述している。 アメリカ陸軍情報部隊へ 戦後、本来ならばすぐにでもニュルンベルク裁判などの連合軍による裁判で裁かれてもおかしくなかったが、アメリカ軍はフランス政府が戦犯として追及するバルビーを、情報部にいた際の知識と経験から、当時ヨーロッパで始まりつつあった冷戦下における対ソ及びドイツ共産党員に対する情報網の設置に役立つ人物と判断し、1947年からアメリカ陸軍情報部隊(CIC)の工作員として利用した。 やがてフランスの諜報機関は、アメリカがバルビーをかくまっているという事実を嗅ぎつけ、引き渡しを要求し始めた。しかしフランス政府の度重なる引き渡し要求にもかかわらず、バルビーの利用価値を高く評価していたアメリカは引き渡しを拒否し続けた。 国外逃亡 フランス政府により高まる引き渡し要求に、アメリカはバルビーを国外に逃すことを画策し、バルビーはCICが用意した「クラウス・アルトマン(Klaus Altmann)」名義のパスポートと必要書類一式を受けとり、1950年12月に家族と共に反共主義のバチカンの庇護や、イタリアの反共組織の協力のもとにイタリアを経由して南アメリカに旅立ち、フアン・ペロン政権下のアルゼンチンを経て、1951年4月23日に家族と共にボリビアのラパスに到着した。
経歴
- 1913Born
- 1991Passed away
- Won Iron Cross
- Won War Merit Cross
豆知識
- •Place of birth: Bad Godesberg
- •Citizenship: Germany, Bolivia
- •Known as: military officer, war criminal, torturer, Gestapo employee