
ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ(José Manuel Barroso)
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ジョゼ・マヌエル・ドゥラン・バローゾ(José Manuel Durão Barroso、IPA, [ʒu'zɛ mɐnu'ɛɫ du'ɾɐ̃ũ bɐ'ʁozu], 1956年3月23日 - )は、ポルトガルの政治家。2002年4月6日から2004年6月29日まではポルトガル首相、2004年11月22日から2014年11月1日までは欧州委員会委員長を務めた。 家族は妻のマルガリーダとの間に3人の息子であるルイス、ギリェルメ、フランシスコをもうけている。 学歴 バローゾはポルトガルの首都リスボンで生まれた。成長した彼はリスボン大学で法学を専攻し、スイスのジュネーヴ大学では経済、社会科学を学んでいる。その後母校のリスボン大学、アメリカ合衆国のジョージタウン大学などで教鞭をとり、同時に博士号を取得した。1998年にはジョージタウン大学でリーダーシップ・セミナーを受講している。リスボンに戻った彼はリスボン大学国際関係学部の学部長に就任した。母国語のポルトガル語のほかに英語・フランス語・スペイン語などを操る。 政治家として ポルトガル バローゾは学生時から政治活動に関わるようになった。1974年のカーネーション革命前後においては、毛沢東主義を奉じるPCTP-MRPP(ポルトガル労働者党ーポルトガル・プロレタリアート革命運動、ポルトガル労働者共産党)のリーダーの一人として活動した。その後思想転向を経て、1980年12月に中道右派政党である社会民主党 (PSD) に入党し、現在に至っている。 1985年にバローゾはアニーバル・カヴァコ・シルヴァ (Aníbal Cavaco Silva) 政権において外務大臣補佐に任命された。1987年には外務副大臣に任命され、その後5年間職を務めた。1990年のアンゴラ包括和平協定(ビセス合意)においては強い指導力を発揮し、アンゴラ内戦における支配政党であるアンゴラ解放人民運動とアンゴラ全面独立民族同盟ゲリラとの戦闘終結に貢献した。また、ポルトガル植民地であった東ティモールの独立にも関与している。1992年に外務大臣に昇格し、1995年に総選挙で与党が敗北するまで職を務めた。 1999年には社会民主党の党首に選出され、ポルトガル議会における最大野党の党首として活動した。2002年の総選挙で辛勝した社会民主党は右派政党人民党との連立を選択し、バローゾは4月6日に首相に任命された。外交政策では親アメリカ路線を採り、2003年のイラク戦争においては、世論に反してアメリカ支持を表明し、いわゆる「有志連合」の一員としてポルトガル軍をイラクに派兵した。2004年にバローゾは首相辞任を表明した。その理由として、支持率の低下と欧州連合での政治活動参加が挙げられている。