
Guerre de Crimée
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クリミア戦争(クリミアせんそう、英語: Crimean War)は、1853年から1856年にかけてロシア帝国と、オスマン帝国・フランス・イギリス・サルデーニャの連合軍との間で行われた戦争である。戦闘地域はドナウ川周辺、クリミア半島、さらにはカムチャツカ半島にまでおよんだ、近代史上稀にみる大規模な戦争であった。連合軍がロシア帝国に勝利してパリ条約が締結され、ロシアが進めていた南下政策は頓挫した。 この戦争の敗北により後進性が露呈したロシアは抜本的な内政改革を余儀なくされ、外交で手腕を発揮できなかったオーストリアも急速に国際的地位を失った。一方、国を挙げてイタリア統一戦争への下地を整えたサルデーニャや、戦中に工業化を推進させたプロイセンがヨーロッパ社会に影響力を持つようになった。また北欧の政治にも影響を与え、英仏艦隊によるバルト海侵攻に至った。この戦争によってイギリスとフランスの国際的な発言力が強まり、その影響は中国や日本にまで波及した。 背景 ナショナリズムの台頭 ナポレオン・ボナパルト以後のヨーロッパ社会に比較的長期の安定をもたらしたウィーン体制だったが、19世紀中頃になると各国の利害関係の複雑化などから揺らぎ始めた。やがて広大な領地に異なる文化や宗教を唱える民族を多数抱えるオスマン帝国のような多民族国家では、被支配民族を中心にナショナリズムが台頭するようになった。 中でもボスニアやヘルツェゴヴィナは、民族的にはスラヴ系でも宗教的な支配層はムスリムであり、そして被支配層はキリスト教徒が多数だった。また工業化がほとんど進んでいないこれらの地域では、人口の大多数が封建領主に搾取される貧農であったため、たびたびセルビアやモンテネグロの反オスマン運動の宣伝に使われた。 オスマン帝国は、近代化よりもまずはこの地方の安定化を優先させる事を意図して、キリスト教徒の被支配層にある程度の平等を宣言して税制の公正化を図るなど、問題の解決に奔走していた。しかし1848年からの一連の革命を機に起こした運動が失敗したため、農奴状態の農民がさらに悲惨な状況に追い込まれることを危惧したオスマン帝国は、不安定ではあるが再び支配権が確立された後に、この地域への農業改革(自作農化)を求めた。支配層のムスリム貴族たちがこれに反対したため、オスマン帝国は1850年にドナウ方面軍司令官オメル・パシャを派遣した。反対派をサラエヴォから追い出し一時的に秩序の回復に成功するが、蜂起した農民の武装解除には至らなかった。