
張勉(Chang Myon)
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張 勉(チャン・ミョン、1899年(光武3年)8月28日 - 1966年6月4日)は、大韓民国の政治家、外交官。英語名:ジョン・ミョン・チャン(John Myeon Chang)。ソウル鍾路積善洞出身。本貫は仁同張氏(玉山張氏)。号は雲石(ウンソク、운석)。カトリック教徒で洗礼名はヨハネ。日本統治時代には、創氏改名により玉岡勉(たまおか・つとむ)と名乗っていたこともある。 国務総理(第2代、7代)、副大統領(第4代)を歴任。1948年の国際連合総会では、新生大韓民国単独政府承認を求め、初代駐米韓国大使の時には、朝鮮戦争の際に「アメリカと国連が韓国の自由を守ってくれ」と懇願して派兵を実現させた。一方、議院内閣制を採用した第二共和国時代では、国務総理として事実上の最高権力者となるも、政局の安定化や軍部統制に失敗し、朴正煕等による5・16軍事クーデターによって退陣に追い込まれた。 経歴・人物 父・張箕彬(チャン・ギビン)の仕事(仁川海関=現在の税関=)のため、仁川で幼少期を過ごす。弟の張勃(チャン・バル)はソウル大学校初代美術大学学長、張勀(チャン・グク)は航空工学学者であり、インテリの家系である。また、妹のアグネタ張貞温は平壌の修道院の院長修道女であったが、朝鮮戦争中に平壌付近で殉教した(2023年現在は列福対象者)。 張勉はアメリカのマンハッタン・カトリック大学で留学した後、教育界とカトリック界で活動していた。 生物学者の張震、カトリック聖職者の張益は息子。 外交官として 1945年、日本の敗戦による解放を迎えると、カトリック勢力の代弁者として後押しされ政界入りを決意した。カトリック信者及び当時カトリック系マスコミであった京郷新聞グループの全面的な支援を受けて、1948年の「5.10選挙」で制憲議会議員に選出された。その後、卓越した英語力などを買われて外交官に転身した。同年12月パリで行われた第3回国連総会に韓国代表団首席として参加、朝鮮半島における唯一の合法政府としての承認を取り付けた。 その後も張勉は李承晩大統領に重用され、韓国の外交活動に投入された。1949年には初代駐米大使として任命を受け、朝鮮戦争勃発時には国連での韓国承認及び国連軍派兵などその後対応に大きな影響力を与えた。アメリカ側も張の国際感覚を高く評価し、当時の駐韓米国大使が次期大統領に張勉を望む公電を打つなど、米韓関係においても重要な人物であった。しかし、持病の肝炎発病のため米軍病院に入院し、1955年まで政治活動は停止することになる。