
マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(Cato the Elder)
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マルクス・ポルキウス・カト・ケンソリウス(ラテン語: Mārcus Porcius Catō Cēnsōrius、マールクス・ポルキウス・カトー・ケーンソーリウス、紀元前234年 - 紀元前149年)は共和政ローマ中期の政務官。清廉で弁舌に優れ、執政官(コンスル)、監察官(ケンソル)を務めた。曾孫のマルクス・ポルキウス・カト・ウティケンシス(小カト)と区別するため、「大カト(ラテン語: Cato maior)」とも称される。大スキピオの政敵とされるが、最初から対立していたとは考えられていない。第三次ポエニ戦争の原因の一つとされる、「カルタゴ滅ぶべし」のセリフで知られる。 生涯 青年期 プレプス(平民)の家系でトゥスクルム出身の、赤みがかった髪と青みがかった瞳が特徴のノウス・ホモ(新人)であるが、カトは父を武勇で国家に功績のあった人としており、カトのコグノーメン(第三名)は元々プリスクスで、後にその功績からカトと呼ばれたという。父親からは、150ユゲラ(約100エーカー、12万坪)の土地を受け継いだものと推測されている。 近所にサムニウム戦争の英雄マニウス・クリウス・デンタトゥスのウィッラがあり、そこを幾度も訪れては彼の質素な暮らしぶりを鑑とし、第二次ポエニ戦争でクィントゥス・ファビウス・マクシムスの下で従軍した後、ピュタゴラス派の先生に学んでからは更に質素倹約・質実剛健を旨とするようになったという。ただ、本当にファビウスの下にいたのかは定かではない。 プルタルコスによれば、農地の接していたプブリウス・ウァレリウス・フラックスが彼の勤勉ぶりを聞き及び、ローマ市で日の目を見るように計らったといい、彼自身もその弁舌によって耳目を集め、出世したという。後にデモステネスと称された。 紀元前217年のトラシメヌス湖畔の戦いの敗戦後、ディクタトル(独裁官)に任命されたファビウス・マクシムスは、神々の怒りを鎮めるための様々な儀式を提案し、そのうちの一つ、春の生け贄は、カトが執政官を務めた紀元前195年に実行されている。 クルスス・ホノルム 紀元前214年、トリブヌス・ミリトゥム(士官)としてシキリアで戦い、おそらく紀元前211年までマルクス・クラウディウス・マルケッルスの下についていた。 紀元前207年、親戚のルキウス・ポルキウス・リキヌスと共に、ガイウス・クラウディウス・ネロの下でメタウルスの戦いに参加しており、この前年死去したマルケッルスに替わって、ネロは貴重な人脈となっただろう。