
アーネル・ピネダ(Arnel Pineda)
このスターに新着があれば通知でお届け
日別に見る
この人は?
アーネル・ピネダ(Arnel Pineda、1967年9月5日 - )は、フィリピン共和国のシンガーソングライター。ジャーニーのリード・ボーカリストとして知られている。 生い立ち フィリピン共和国マニラ市サンパロックの仕立て屋に4人兄弟の第一子として生まれる。幼少のころからカレン・カーペンターやバーブラ・ストライサンドの歌に合わせて歌うよう母親に仕込まれる。少年期から歌唱コンテストに多数参加する。 アーネル12歳の時に、母がリウマチ性心疾患で死去。日本のような医療保険制度が未整備のため、一家は多額の借金を抱えることになる。アパートの家賃も半年から1年分滞納するなど困窮したため、アーネル以外の兄弟は親戚に預けられ、父親の負担を減らすためにアーネルはキアポ・パロキアル校(教会学校)を自主退学、エンジニアになりたい夢を捨て、一人独立を決意する(部活動はグリークラブ、ロンダラ・ギター部などに所属していた)。 約2年間、路上生活少年となり、リサール公園や友人の家近くのベンチなどで寝て、リサイクル業者に、空き瓶、古新聞、くず金属などを集めて売って、わずかな収入を得る。時には港湾地区で船舶の清掃をする、埋葬歌を歌うなどしたが、満足に食えず、2日間の食事がマリー・ビスケット少々だけの場合もあったという。喉が渇いたら、ガソリンスタンドで油風味の水を飲むなどした。このようなどん底生活にもかかわらず、アーネルは将来について楽観するように努めていた。 歌手活動 1982年アーネル15歳の時に、イホス・バンドのリード・ボーカリストとなり、シェーキーズピザで歌う。1986年には、イホスの旧メンバーがアモというグループを結成、ロック・ウォー・コンテストで大賞を獲得した。 1988年ヤマハ・バンドエクスプロージョン・フィリピン予選でアモは1位となるも、香港大会で予選決勝敗退。演奏の未熟さがあったことは確かだが、決勝曲はオリジナル曲でなければならないとする規約と、決勝曲は母国予選と同じ曲でなければならないとする規約に泣かされた面もある。フィリピン予選で優勝した時の決勝曲はクイーンの「ボヘミアン・ラプソディー」でアモのオリジナル作ではなかった。敗退後もバンドとしてライブ活動を続け、1989年にはロバート・パーマーの前座もこなした。ケソン市、オロンガポ市、マカティ市のクラブで演奏を続け、特にオロンガポ市で華僑が経営するクラブ「カリフォルニア・ジャム」でのスービック海軍基地米兵客らの間で人気が高かった。