
Affaire Dreyfus
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ドレフュス事件(ドレフュスじけん、仏: Affaire Dreyfus)とは、1894年にフランスで起きた、当時フランス陸軍参謀本部の大尉であったユダヤ人のアルフレド・ドレフュスがスパイ容疑で逮捕された冤罪事件である。 背景 普仏戦争に敗れたフランスであったが、戦後は急速に国力を回復しつつあった。50億フランに及んだ戦争賠償金は期限前に完済し、1880年代には余剰資金を外国や植民地に投資し、資本輸出国の一員となっていった。戦争中に成立した第三共和政は共和派左翼を中心に進められていたが、しばしば右派による揺り戻しを経験した。1886年から1889年にかけて起こったブーランジェ将軍事件はその一つである。 概要 1894年夏、フランス陸軍省は陸軍機密文書の名が列挙された手紙を入手した。手紙はドイツ陸軍武官宛てで、フランス陸軍内部に情報漏洩者がいるのではないかと懸念された。筆跡が似ていたことから、ユダヤ人砲兵大尉ドレフュスが逮捕された。しかし、具体的な証拠どころか、ドレフュスが金銭問題を抱えている、もしくは急に金回りが良くなったなどといった状況証拠すら欠いていたため、スパイ事件及びドレフュス逮捕の事実はすぐには公表されなかった。 ところが、この件が反ユダヤ主義の新聞に暴露されたことから、対処を余儀なくされた軍は、12月22日に終身禁固刑を言い渡した。1895年3月、ドレフュスはフランス領ギアナ沖の離島であるディアブル島に送られた。 1896年、フランス陸軍情報部は、情報漏洩者がフランス陸軍の少佐、フェルディナン・ヴァルザン・エステラジーであることを突き止めた。軍上層部はそれ以上の調査を禁じたが、このことがドレフュスの兄の耳に入り、兄はエステラジーを告発する手紙を陸軍大臣宛てに書いた。しかしフランス陸軍大臣のシャルル・シャノワーヌは再審に反対していた。国家主義、反ユダヤ主義の世論にも影響され、エステラジーは軍法会議にかけられたものの、無罪となった。エステラジーはイギリスに逃亡し、そこで平穏な生涯を終えた。 無罪決定の2日後、1898年1月13日付の新聞に、作家エミール・ゾラは『私は告発する』と題する、フェリックス・フォール大統領に宛てた公開状を掲載し、軍の不正を糾弾した。発表後はユダヤ人迫害事件の一方で、ドレフュスの再審を求める動きも活発になった。再審派と反対派の議論はもつれたが、1899年、大統領が反対派のフォールからエミール・ルーベに交代したことから進展を見せた。ルーベは特赦を出してドレフュスを釈放した。 ドレフュスはその後も無罪を主張し、フランスの最高裁判所にあたる破毀院は1906年7月12日に無罪判決を下した。