
ダライ・ラマ13世(Thubten Gyatso)
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ダライ・ラマ13世(1876年2月12日 - 1933年12月17日)は、第13代のダライ・ラマ。法名をトゥプテン・ギャツォと言う。1878年にダライ・ラマの生まれ変わりと認定された。 当時のチベットは大清帝国と大英帝国とロシア帝国の勢力争いの渦中に巻き込まれていた。後年フィンランド大統領となるカール・グスタフ・エミール・マンネルヘイムは、モンゴルへの旅の途中で13世に謁見しているが、その際13世はイギリスに対して懐疑的な一方でロシアへの関係樹立には興味を示していたという。しかし1904年にイギリスは軍隊を派遣して、チベットの中心都市ラサに駐留。ラサ条約に調印するが、清がチベットへの主権を主張して対立。13世は北京に避難し清朝廷の庇護下に入るが、1908年にラサへ帰還した。 1910年に今度は清軍が、イギリスの影響を排除するためとしてチベットに侵攻。13世はシッキム、ネパールと転々としインドに向かった。清は13世の廃位を宣言するが、1911年の辛亥革命により清は滅亡。しかしその後も清軍の勢力が残り、チベットの民族政権が清軍を駆逐するには1912年までかかった。清に代わった中華民国は13世の地位を保証したため、1913年1月にラサへ帰還。1914年に英国とシムラ条約と締結する一方で、インド亡命中から近代化に着手した。欧米の議院内閣制に倣ってカシャグ(民会)を基盤として大臣を選出するシステムを確立し、郵便切手や紙幣の発行・西洋式病院の設置などを行った。また今日広く使われているチベット旗を正式に定めている。 生涯 背景 19世紀のチベットは権力争いが続いた。ラサ政府(チベット中央政府)では、ダライ・ラマ11世が1855年に政治の実権を摂政ラデン・トゥルクから譲り受けたが、1856年に謎の死を遂げると、実権は再び元の摂政の手に戻った。ダライ・ラマは12世が継いだが、幼少であり実力は無かった。1862年、摂政に流刑されていた軍実力者でドーグラー戦争の功績者シャタ・ワンチュク・ギェルポ(シェーダ・ワンチュクゲルポ)に同調する勢力が摂政を追放し、この軍実力者が新たな摂政となった。この新しい摂政は対立勢力を迫害するが、2年後の1864年に死んだ。後任の摂政も対立勢力を迫害するが、1872年に死んだ。その後はダライ・ラマ12世の親政となったが、その時期もまた短く、1875年に死んだ。その後は新たに任命された摂政が権力を握った。